起業後、1167日目。
今日は、根拠のない自信について。
2012年のHALOは、ムチャクチャに大きな目標を掲げている。
端的に言うと、数字の上では、上場できるぐらいの大きな目標だ。
採用においても、「大きな野望を持っていること」を採用する/しないの判断基準として重視している。理由は、人間良くも悪くも、思った通りの80%位の誤差の自分に納まるからだ。
しかしそもそも、大きな夢・野望・目標を立てるには、「根拠のない自信」が必要だ。もっと言うと、「コイツちょっと、アホなんじゃないか?」と思うぐらいの「根拠のない自信」が必要だ。
大きな目標を語ったときに、他人から笑われるのが恐いのか?失敗したときに、恥ずかしいのか?そもそも、自分には無理だと思うのか?理由は色々あると思うが、大きな野望・夢・目標を立てている人は、本当に少ない。ところが、「根拠のない自信」に溢れている人は、こういう色んな障害を易々と突破して、大きな目標をぶち立てる。
そこで僕は、「根拠のない自信はどこから来るのか?」という疑問を3年間持ち続けてきた。 関連する本もたくさん読んできたし、商談や面接の場など、ことあるごとに考察してきた。
すると分かったのは、「原点は、親バカにある」ということだ。
思い出してほしい。小学校の作文で、みんな大きな夢を書いてなかったか。「イチローみたいな野球選手になりたい」とか「私は小説家になりたい」とか「オレは億万長者になるんだ」とか好き放題、思い描いていたではないか。
しかし、中学→高校→大学→社会人と年を重ねるにつれ、みんなどんどん小さくなっていく。身体は大きくなり、知識や知恵も増えるのに、夢だけは小さくなっていく。「小さくなっていく」と言うと言葉が悪いが、現実的になる。しかし、人によって思い描く「現実」もまた違う。その背景として、「根拠のない自信」の大小が関わっている。子供の頃は、みんな「根拠のない自信」に溢れてなかったか?
「根拠のない自信」を大きくしたり、小さくしたりする最も大きな要因は、その人の過去における、成功体験と失敗体験、それに対する周りの反応、そして、最終的な自分の解釈である。
運動会の徒競走で1位をとって親から褒めれた、図工で絵を書いたら先生に褒められた、中間テストで学年1位をとって友達にスゲーと言われた、マリオカートが近所で一番速いかったのでチビっ子から尊敬の眼差しを受けた、とかなんでも良い。異なる分野でも良いから成功して、誰かに賞賛され、自分自身が「オレすげえな」と思う経験があると、「根拠のない自信」が大きくなる。
すると、根拠のない自信 → 成功したという解釈 → 自分はやれると思う → 失敗してもへこたれずにがんばる → いつか本当にやれてしまう → 根拠のない自信が大きくなる → 自分はもっとやれると思う・・・ みたいな「勝ちスパイラル」が起こる。
逆に、運動会の徒競走で2位をとったら親に怒られた、図工で絵を書いたら先生にダメ出しされた、中間テストで学年2位をとったらアイツも大したことねーなと言われた、マリオカートで連勝を破られたとき、チビっ子ギャラリーが去っていた、とかなんでも良い。異なる分野でも良いから失敗して、誰かからマイナス評価を受け、自分自身が「オレしょぼいな」と思う経験があると、「根拠のない自信」は小さくなる。
すると、根拠のない自信 → 失敗したという解釈 → 自分はやれないと思う → 失敗するとすぐにへこたれる → いつか本当にダメになる → 根拠のない自信が小さくなる → 自分はますますダメだと思う・・・ みたいな「負けスパイラル」が起こる。
※「さすがにゲームは関係ないだろ」と思われるかもしれないが、ここ数年、ダービースタリオンで全国1位をとったことがある人と仕事をしたが、その人はムチャクチャに仕事ができた。そして、マジック・ザ・ギャザリングというカードゲームで学生時代に全国大会に出場したことがある知人は、数年前、最年少で市議会議員に当選した。
ポイントは、競争の結果や制作物=事象そのものではなく、それに対する周りの反応でもなく、「それらをどう捉えるか」という最終的な自分の解釈にあることだ。周りからマイナス評価や批判があったとしても、「根拠のない自信」に溢れている人は、跳ねのけてがんばる。一方で、「根拠のない自信」が足りてない人は、周りから少しでもマイナス評価や批判があると、過大にそれを捉えて、実際以上に自分を低く見積もってしまい、途中でやめる。
なるほど、成功&失敗の解釈の積み重ねによって分岐するのか。
では、もっとさかのぼって、成功体験のほとんどない本当に小さい頃は、どうだろう?なんでみんな、あんなに全能感があって、根拠のない自信に溢れ、大きな夢を口にしていたのだろうか?大した成功なんて絶対してないはずなのに。。
それこそ、キング オブ「根拠のない自信」である。
この状態で長らく、僕の考察は袋小路に入っていた。
しかし最近、土日にFacebookのwallを眺めながら、確信した。
そうか、「親バカが、根拠のない自信の原点なんじゃないか」と。
僕も今年で33才になるので、土日ともなると、wallがFriendsの子供の写真で溢れかえる。独身男としては、正直、なぜあんなに執拗にアップするのか、なぜ、あんなに自分の子供を褒めちぎるのか、今ひとつ腑に落ちないものがあった。
こういうことではないだろうか。
アレは、社会をより良くするために人間に備わった社会的な機能、いや、本能なのだ。
子供が生まれた → スゴイ!感動!生まれてきてくれて、本当にありがとう!
子供が立った → スゴイ!こんなに早く立つなんて、うちの子、運動神経良いかも!
子供がしゃべった → スゴイ!こんなに早く喋るなんて、うちの子、言語野が発達してるかも!
周りから冷静に見ると、「そりゃそうだろ」みたいな事象に一つずつ感動があり、感謝があり、うちの子はスゴイかも!みたいな賞賛がある。
それらの一つ一つが複雑な言葉を解さない子供にも、実は全部伝わっているのではないかと思うのだ。親の表情、動作、言葉の調子などすべてを通じて。
その賞賛や感謝に根拠や理由なんていらない。
だって、それが僕らの原点であり、基地なんだから。
だから、さみしい独身男としては、そういったpostに全力で「いいね!」していこうと思う。そして、放っとくと徐々に小さくなっていく「根拠のない自信」を守り、育てるため、とりあえず学生は褒めようと思う。
仮に、「矢野さん、褒めすぎじゃないですか?」と問われたら、
「明確な根拠はない!しかし、大きな意味はある!」と高らかに答えよう。
そして、自信満々&クソ生意気な状態で新卒で入社してきたら、「うん、そうか!じゃあやってみよう!」とか言って、超難しい顧客とかウルトラ困難な新規事業とかをぶん投げて、思いっきり失敗させたら良い。
どうせ口で言っても分かんないし、その方が吸収が早い。僕の経験でも、だれかに言って聞かせられることよりも、自分で気づくことの方が数百倍大きい。彼らが知識や知恵に対して、「本当に乾いた状態」になってはじめて、知識や知恵は染みこんでいくものだ。
だからその前に、簡単に「失敗した」とか「オレはもうダメぽ」とか思わないだけの
「根拠のない自信」を我々が共同体として育んでいくことが大事だと思う。
加えて、彼らが競争&協調していく未来の相手は、海の向こう側にいる。恐ろしくハングリーで、元気で、日本語よりもっとメジャーな言語を操る人達だ。その時、「根拠のない自信」もなしにどう挑んでいけると言うのか。
僕が彼らに一つだけ武器を持たせてあげられるとしたら、「根拠のない自信」を持たせる。英語やITや教養の類いは、壁にぶち当たってからやっても遅くないだろう。それよりも、まず壁にぶち当たるまで挑戦しようと思う「根拠のない自信」を持たせる。壁にぶち当たってもへこたれない「根拠のない自信」を持たせる。
今も昔も、「最近の若者は〜」とか言って、難しそうな顔して説教たれるオッサンがいるが、「いいね!」「すごいね!」とか言いながらニタニタしてた方が、我々の未来も明るい気がするのだ。
そこに愛がある限り。